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< 地震・石綿・マスク支援プロジェクト
地震・石綿・マスク支援プロジェクト
東日本大震災から14年 被災地を訪ねて
2025/03/28
3月2日、仙台市において「災害とアスベストを考えるシンポジウムin仙台」が開催され、兵庫から3名が参加した。シンポジウムの前日に、駆け足であったが東日本大震災から14年になる被災地を訪ねた。
◆津波にのまれた閑上地区
東日本大震災後に初めて被災地を訪れたのは2011年8月であった。被災地の復旧・復興のために建物の解体工事やガレキの撤去作業が進むなかで、アスベストセンターが中心となり「だいじょうぶ?被災地のアスベスト」をテーマに3日間のイベントが開催され、参加した。その際に車で仙台市や名取市の閑上(ゆりあげ)地区を回った。
仙台空港は海の近くにあるが、その北側の地域が閑上地区である。名取市閑上地区には約5,000人が住んでいたが、震災後に発生した津波にのまれ街は更地となってしまった。ガレキや自動車や農業用機械があちこちに積み上げられ、何艘もの船が道路の端に横たわり、住宅の基礎部分だけがコンクリートの枠として残っている光景が印象に残った。広く区画整理された田が多く有ったが、津波に覆われたため「塩害で土を全て入れ替えないと米は作れない」と嘆きながらチューリップを植えていた方のことが今も想い出される。
◆経験を伝承する難しさ
今回も車で閑上地区を回ったが、海沿いには住宅はなく、1階部分が高く設けられた様式のマンションが数棟ならぶ姿が印象的であった。そして津波対策として、海沿いにある南北の県道が6mかさ上げられ、延長約10キロの「かさ上げ道路」ができあがり、あちこちには小山の様に盛り上げられた待避場所(避難の丘)が設けられていた。
まず閑上地区のある「名取市震災復興伝承館」を訪問した。震災以前の閑上地区の街を再現したジオラマには1軒1軒の家に名前が書かれていた。また震災前と震災後の航空写真が展示されており、建物が無くなった写真から巨大な津波の力を視覚から実感した。
「閑上」の名の由来のひとつに、「平安時代の貞観地震の際、浜に十一面観音像がゆりあげられた」ため、「ゆりあげ浜」と呼ばれるようになったという説があるそうだ。過去の地震の度にその経験を継承するため、「地震が有ったら津波の用心」と記した石碑が建てられたが、記憶に残る最近の地震で被害がなかった経験から『津波はこない』という誤った認識となり、3. 11の被害に繋がったのではないかと言われている。
◆歴史を紐解き、油断せず、常に備える
その後、閑上地区の北側に位置する荒浜地区にある震災遺構・荒浜小学校へ行った。小学校は海岸から約700m離れた場所にあったが、津波は4階建ての校舎の2階部分、地表から4.6mまで達した。荒浜地区では190名以上の方が亡くなったが、小学校に避難した32 0名(児童・教職員・地域住民)は全員が無事に救助された。
2011年に訪れた際は校舎の外側からしか状況を見ることが出来なかったが、現在は遺構としての整備が進められ、校舎の1階から避難者がヘリコプターで救出された屋上までが見学でき、来館者が日頃の災害への備えと発生時の対応を学ぶことができるようになっている。
特に、地震発生から27時間後に避難者全員が救出されるまでを、当時の校長・教頭・町内会長へのインタビューや消防ヘリの映像を交えてまとめられた約17分の映像上映からは当時の緊迫感が伝わってきた。
ここにも、「震災前、多くの住民は仙台平野に度々津波が襲っていたことを認識していなかった。しかし、過去を振り返ると、この地域は約400~800年周期で津波に襲われていたことがわかった。過去の歴史を紐解き、油断せず、常に備えることの重要性がわかる。」と記されていた。
◆記録を伝承すること
次に東松島市の震災遺構をめぐり、石巻市の門脇小学校へと向かった。
門脇小学校は、地震と火災に見舞われた校舎が遺構として公開されている。震災から2年後の2013年3月、東京労働安全センターらが主催する「これからのアスベスト被害を考える集いin仙台」が開催され、皆で門脇小学校も訪れた。その時は校庭から焼け焦げた校舎内を見ることした出来なかったが、現在は校舎の1階から3階までの内部を近くから見ることが出来るように照備されている。津波火災の場合、垂直避難だけでは難しい面があることを遺構は伝えている。当時、学校にいた児童や教職員らは普段の訓練通りに校舎裏の日和山へと避難し多くの命が助かったが、その教訓が映像等で紹介されていた。
ここにも次のような掲示があった。 「869年の貞観地震と大津波 1611年の慶長三陸地震と大津波、その後に起きた災害 有史以来、これら過去の災害は記録されてきましたけれど、それが生かされなかったのはなぜなのか それは、記録されても記憶(伝承)されてこなかったからではないでしょうか そのことに深く気づかされたのが東日本大震災でした」。
「自然を前にして人間は無力です 祈る事しか叶わないときもあります けれども、自然とのかかわりのなかで、先人たちが築きあげた歴史と知恵があります 過去に学ぶことの大切さを知ったのもまた東日本大震災でした」。
◆震災の被害は現在進行形
宮城県内には多くの伝承施設やモニュメント、震災遺構の整備が進められている。地震と津波、火災を体験した人たちの経験を映像を通じて受け取ることが出来る。すると景色を見るだけではわからない、人々の感情が伝わってくる。
今回、特に印象に残ったのは、東日本大震災で犠牲になった方は「関連死3,774人以上」と記録されていることであった。「以上」とは、今後も増え続けるということで現在進行形を意味している。実際に復興庁の関連死の発表も更新され続けている。「関連死が多いのは福島県です わが家があるのに戻れない 住めない現実を あなただったら どう向き合いますか震災からの復興とは そう 単純なことではないのです」(石巻市震災遺構門脇小学校一『記憶を紡ぐ』より」。
阪神・淡路大震災から30年の節目ではあるが、アスベスト被害は現在進行形である。私たちも現在進行している被害を見つめなければならない。
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◆津波にのまれた閑上地区
東日本大震災後に初めて被災地を訪れたのは2011年8月であった。被災地の復旧・復興のために建物の解体工事やガレキの撤去作業が進むなかで、アスベストセンターが中心となり「だいじょうぶ?被災地のアスベスト」をテーマに3日間のイベントが開催され、参加した。その際に車で仙台市や名取市の閑上(ゆりあげ)地区を回った。
仙台空港は海の近くにあるが、その北側の地域が閑上地区である。名取市閑上地区には約5,000人が住んでいたが、震災後に発生した津波にのまれ街は更地となってしまった。ガレキや自動車や農業用機械があちこちに積み上げられ、何艘もの船が道路の端に横たわり、住宅の基礎部分だけがコンクリートの枠として残っている光景が印象に残った。広く区画整理された田が多く有ったが、津波に覆われたため「塩害で土を全て入れ替えないと米は作れない」と嘆きながらチューリップを植えていた方のことが今も想い出される。
◆経験を伝承する難しさ
今回も車で閑上地区を回ったが、海沿いには住宅はなく、1階部分が高く設けられた様式のマンションが数棟ならぶ姿が印象的であった。そして津波対策として、海沿いにある南北の県道が6mかさ上げられ、延長約10キロの「かさ上げ道路」ができあがり、あちこちには小山の様に盛り上げられた待避場所(避難の丘)が設けられていた。
まず閑上地区のある「名取市震災復興伝承館」を訪問した。震災以前の閑上地区の街を再現したジオラマには1軒1軒の家に名前が書かれていた。また震災前と震災後の航空写真が展示されており、建物が無くなった写真から巨大な津波の力を視覚から実感した。
「閑上」の名の由来のひとつに、「平安時代の貞観地震の際、浜に十一面観音像がゆりあげられた」ため、「ゆりあげ浜」と呼ばれるようになったという説があるそうだ。過去の地震の度にその経験を継承するため、「地震が有ったら津波の用心」と記した石碑が建てられたが、記憶に残る最近の地震で被害がなかった経験から『津波はこない』という誤った認識となり、3. 11の被害に繋がったのではないかと言われている。
◆歴史を紐解き、油断せず、常に備える
その後、閑上地区の北側に位置する荒浜地区にある震災遺構・荒浜小学校へ行った。小学校は海岸から約700m離れた場所にあったが、津波は4階建ての校舎の2階部分、地表から4.6mまで達した。荒浜地区では190名以上の方が亡くなったが、小学校に避難した32 0名(児童・教職員・地域住民)は全員が無事に救助された。
2011年に訪れた際は校舎の外側からしか状況を見ることが出来なかったが、現在は遺構としての整備が進められ、校舎の1階から避難者がヘリコプターで救出された屋上までが見学でき、来館者が日頃の災害への備えと発生時の対応を学ぶことができるようになっている。
特に、地震発生から27時間後に避難者全員が救出されるまでを、当時の校長・教頭・町内会長へのインタビューや消防ヘリの映像を交えてまとめられた約17分の映像上映からは当時の緊迫感が伝わってきた。
ここにも、「震災前、多くの住民は仙台平野に度々津波が襲っていたことを認識していなかった。しかし、過去を振り返ると、この地域は約400~800年周期で津波に襲われていたことがわかった。過去の歴史を紐解き、油断せず、常に備えることの重要性がわかる。」と記されていた。
◆記録を伝承すること
次に東松島市の震災遺構をめぐり、石巻市の門脇小学校へと向かった。
門脇小学校は、地震と火災に見舞われた校舎が遺構として公開されている。震災から2年後の2013年3月、東京労働安全センターらが主催する「これからのアスベスト被害を考える集いin仙台」が開催され、皆で門脇小学校も訪れた。その時は校庭から焼け焦げた校舎内を見ることした出来なかったが、現在は校舎の1階から3階までの内部を近くから見ることが出来るように照備されている。津波火災の場合、垂直避難だけでは難しい面があることを遺構は伝えている。当時、学校にいた児童や教職員らは普段の訓練通りに校舎裏の日和山へと避難し多くの命が助かったが、その教訓が映像等で紹介されていた。
ここにも次のような掲示があった。 「869年の貞観地震と大津波 1611年の慶長三陸地震と大津波、その後に起きた災害 有史以来、これら過去の災害は記録されてきましたけれど、それが生かされなかったのはなぜなのか それは、記録されても記憶(伝承)されてこなかったからではないでしょうか そのことに深く気づかされたのが東日本大震災でした」。
「自然を前にして人間は無力です 祈る事しか叶わないときもあります けれども、自然とのかかわりのなかで、先人たちが築きあげた歴史と知恵があります 過去に学ぶことの大切さを知ったのもまた東日本大震災でした」。
◆震災の被害は現在進行形
宮城県内には多くの伝承施設やモニュメント、震災遺構の整備が進められている。地震と津波、火災を体験した人たちの経験を映像を通じて受け取ることが出来る。すると景色を見るだけではわからない、人々の感情が伝わってくる。
今回、特に印象に残ったのは、東日本大震災で犠牲になった方は「関連死3,774人以上」と記録されていることであった。「以上」とは、今後も増え続けるということで現在進行形を意味している。実際に復興庁の関連死の発表も更新され続けている。「関連死が多いのは福島県です わが家があるのに戻れない 住めない現実を あなただったら どう向き合いますか震災からの復興とは そう 単純なことではないのです」(石巻市震災遺構門脇小学校一『記憶を紡ぐ』より」。
阪神・淡路大震災から30年の節目ではあるが、アスベスト被害は現在進行形である。私たちも現在進行している被害を見つめなければならない。